教養難民

元大阪市の職員だったウエダゲンキが、余白の時間を使い、様々な人・場所と出会い、そこであったこと、ふと考えた事などを書き連ねます。

サードプレイスのジレンマ

大阪市の職員を辞めて一年が過ぎ、そしてまた春がやってきた。
昨年度は学生をしながら様々な仕事を掛け持ちして、何とかやってきた。
大学も蓋を空けてみると56単位取っており、2年で卒業出来る目処が立ってきた。
自身が運営しているコミュニティスペース「学森舎」の活動も
テレビ、雑誌、ネット記事など様々な媒体で取り上げて頂き、
これから記事になる予定のものもある。外から見れば活動は順調ともいえるだろう。

しかし、どうもこの充実した1年間の事をゆっくり振り返ってみると
コミュニティスペースが抱えている構造的な問題について考えざるを得ないのであって
何がもやもやしているのかはっきりさせるためにここに記す事にする。

学森舎とは何か?という事を人に説明する時に昔は「住み開き」という言葉を多用していたが、
最近は「サードプレイス」という言葉が非常に使いやすい。
学校や職場と家庭以外で、見知らぬ他人とコミュニケーションが取れる場所、
という事で、サロン的な役割を果たす場所という説明が非常にやりやすい。
コミュニティを広げて行く第三の居場所として機能し、
新たな人間関係やライフスタイルが生まれる可能性があるという事である。
ここまでは昔からずっと言ってきた事であるが、
最近この「居場所」や「サードプレイス」に対する違和感も同時に出て来ている。

僕は多くの「居場所」や「交流」を求めている人がいるからこそ、
コミュニティスペースが成り立っているのだと思っているのだが、
その「居場所」や「交流」の向こう側にあるものは一体何なのか
という事をよく考えてみれば、
その本質は「コミュニティの独占」なのではないかと思った。

僕の友人にも30ぐらいになると結婚する人や、子どもが出来る人など
家庭を持つ人も増えて来た。
家庭を持つという事は要は自分の存在を認めてもらえる最大の場所を手に入れることでもあり、
「家庭というコミュニティを自分が独占できる」という事も出来るように思う。
家族というのは、自分自身のアイデンティティを最も近い所で明らかにする事ができる
仕組みであり、差はあるにせよ、家族からは非常に大きな影響を自身が受けている
というのは誰であっても否定はできないだろう。
家族は自身の一番身近で濃厚なコミュニティの一つであるし、
冷たい言い方をすればその本質は「自分の居場所が独占的に確保されていること」
にあると言ってもいい。

これに対してサードプレイスは人間関係のスタートアップには
適しているが、深い付き合いになった友人や恋人、家族などと一緒に居る場所としては
極めて居心地の悪い場所になる可能性がある。
人は誰しもスタートアップとして人間関係が築かれれば、その後は
誰かと個人的で独占的な人間関係をより深めていきたいと思うに違いない。
コミュニティスペースというのは見知らぬ人同士でいかに
フラットな場をいかに作るかという所に真髄があり、
特に特定の人を独占するというのは、ある意味コミュニティスペースの理念とは
真っ向から反発するという風にも解釈する事もできる。

「人との向き合い方に差を作る」という行為と
「特に親しい人間関係が出来る」という事は同じ意味であり、
人は交流するからには最終的に「特に親しい人間関係」を求めていくに違いない。


人は常にスタートアップを求めている訳ではない。
自分の居場所を確保、維持したいと思うだろうし、
確固たる居場所が独占でき満足のいくシステムを構築出来た人は、
どんどんコミュニティスペースから離脱していく可能性もあるのではないかと思う。
そういう事を何となく考えていると近年のシェアハウスや
コミュニティのブームというのも、
「人と交流していくことへの関心が尽きない」という一部の特殊な興味の人と
「家庭のような確固たる自分の居場所がまだ存在していない」
という人によって支えられているのかなーと思い
それがなかなかこの動きが外側の社会に広がって行かない理由の一つかななんて思っている。

コミュニティスペースは、職場や結婚によって居場所を確保できている
人のほとんどにとっては興味を持つような
インセンティブがほとんど働かないという側面がある。

そうなると、結局シェアハウスのようなものが、フリーランスや独身者や
活動家や学生など、ある特定の類型の人の
コミュニティに偏ってしまうという構造をぶち壊して行く事は非常に難しいだろう。
その辺りの事に非常にもやもやしているのだけど、答えは出ていない。

独占的な人間関係への欲求とフラットな人間関係の共存をどう考えていくかが
今年一番自分の前に立ちはだかる非常に大きな問題なのではないかなと思っています。